「欠如」と「内輪の理論」(「旗」に関する個人的感想)

他クラブのことであり、それぞれ独立して記事が書けるトピックではあると思うのですがこれらが立て続けに起こり、かつそれぞれに共通した点が見受けられるなぁと思ったので1本の記事でまとめてみたいと思います。

ガンバのSS旗の件がきっかけで薄ぼんやりした知識がはっきりと形になったのですが、欧州のスタジアムにおいてナチスに関する意匠の掲示が禁止されている中で、シャルケ04では現在においても勲章として機能している鉄十字の掲示も禁止しているのだとか。その鉄十字の起源をたどると12世紀後半に設立され現在でも存続しているドイツ騎士団の紋章がモチーフ、とのことです。では何故シャルケ04では鉄十字の掲示を禁止しているのか。これは私の推測でしかありませんが、スワスティカが刻まれた鉄十字をナチス政権が授与してきた、という歴史を踏まえているからではないでしょうか(2年くらい前に「しまむら」でスワスティカの刻まれた鉄十字が販売されて大問題になりましたが、あのような意匠の鉄十字がナチス政権時は実際に授与されていたわけですね)。更に言及すればスワスティカの起源はとんでもなく古いものであるようです。しかしながらこのご時世で「「スワスティカという言葉自体はサンスクリット語で「幸あれ」の意味で、吉兆、幸運を表す」ものであり、様々な宗教で使用されてきた意匠なのだから問題ない」と主張が通るか、というと答えはNOでしょう。少なくとも現在の文明において、過去の歴史が次の時代へ受け継がれ語り継がれていく限りにおいて、スワスティカを掲げることはナチズムへの賛同を意味すること以上でも以下でもないのです(だからこそ、地図における寺の記号が「卍」から別のものに変更する案も出てきたわけです)。

ナチスを想起させる意匠やスローガンの掲示が何故頑なに禁じられているか、それはナチスが行った所業の数々に対して完全に訣別する、という強固な意思を垣間見ることが出来ます。FIFAやUEFAが「No to RACISM」というスローガンを掲げていることは「ナチズムの否定」という側面が大いにあるわけです。「アーリア人同士の間に産まれた、五体満足で異性に欲情する健康なアーリア人」と「それ以外」という序列があるナチズムと、「基本的人権」「個人の権利および各種の自由」および「多様性」という、現在の民主主義的な価値観とは相容れるところが一つもありません。海外において「ヘイトスピーチ」が規制されるのは「多様性」を真っ向から否定する言説だからです。日本では「ヘイトスピーチ規制」について「ヘイトスピーチを発する自由を保障してこその表現の自由」だの「正義の暴走がウンタラカンタラ」といった、一見冷静で客観的で中立であるかのような言論が一定数受ける土壌があるわけですが、ヘイトスピーチ自体が「人権・個人の権利および自由・多様性を否定する類の言葉である」という視点が欠如しているからこそ、「仮にSSの旗に似ていてもここは日本だドイツとは関係ない」とか「政治的・差別的な意図はなかった」とか、大変醜い言い訳が一定数湧いてくるのではないでしょうか。

川崎の旭日旗についても、わざわざ「政治」の力を借りてまで「問題ない」とアナウンスしてみたところで「内輪の理論」でしかありません。Wikipediaに「大日本帝国の最大版図」の図があったのでリンクを貼っておきますが、ここで色を塗られた地域を武力で侵略していった際に旧陸軍や旧海軍が掲げていた旗は一体何だったのか。そういった過去の歴史に触れず顧みず、「何故韓国サポーターはスタジアムで旭日旗を掲示することに対して怒りを覚えるのか」という疑問を抱くことや想像する習慣が欠如しているからこそ、「自衛隊旗として利用されている旗に政治的・差別的な意図はない」という見解が出て来るのでしょう。「抗議しているのは韓国人だけ」といった、反論なのか反論の皮を被った人種差別発言を声高に叫びたいだけなのかよく分からない戯言が目につきますが、その物言いこそ「加害者性の欠如」そのものなのです。「当時の世界情勢的にウンタカカンタラなので侵略は仕方なかったのだ」みたいな発言もまた「内輪の理論」でしかないのです。そしてここ10年くらいで積極的に旭日旗を掲示しているのは「朝鮮人は出て行け」だの「ゴキブリ」だのとヘイトスピーチを撒き散らして、ご丁寧にスワスティカと共に天下の公道を歩いているような集団なわけですが、そんな日本の状況を他国が把握していないわけがありませんし、上記のような腐れ外道集団が旭日旗を掲げて大久保や桜本といったコリアンタウンで延々とヘイトスピートを繰り返し続けたことを韓国の方々が全く知らない、なんてことはないわけです。以上を踏まえた上でACLが旭日旗掲示について「挑発的・差別的行為」と認定したのは個人的には極めて妥当であると考えております。

「スポーツ」は常に「政治」に利用され、または翻弄されてきました。オリンピックでは「1936年のベルリン」「1980年のモスクワ」「1984年のロサンゼルス」、サッカー関連で言えば「1978年のアルゼンチンW杯」、Jリーグと縁の深いイビツァ・オシムやドラガン・ストイコビッチの人生を狂わせた「1992年のユーゴスラビア代表」等など。政治に翻弄されるスポーツの状況に対し、「1999年のストイコビッチ」はTシャツに「NATO STOP STRIKES」と書かれたメッセージを掲示したわけですが、後年「オシムって言っちゃったね」と宣った当時のチェアマンは「 「ピッチ(グランド)に政治を持ち込むな」と、黒い腕章など無言の抗議まで禁止する通達を出した 」とのことです。「スポーツと政治は別」という文言については、2009年に@inumashさんがこのような文書を書いておりました。

「スポーツと政治は別」

それは現実ではない。理想であり願望である。

「スポーツと政治は別」

それはストイコビッチの信念であり、そして彼を2度裏切った言葉。

「スポーツと政治は別」

そしてある人々にとっては、厄介事を回避する為のレトリックでしかない言葉。

「スポーツと政治は別」(2009年12月12日)

私が可能性ゼロと思いながらもJリーグとJFAに期待していたのは、旭日旗の下で過去に何が起こったのかを踏まえた上で、政府の解釈がどうであろうがJリーグおよびJFA主管試合において旭日旗掲示を禁止する声明を発表することだったのですが、やったことは「旭日旗の解釈は日本政府の見解の通りで我々に罪はありません」という残念極まりないものであり、菅官房長官がこの件について言及したことで「政治的」な問題にしてしまったわけです。そしてJリーグおよびJFAは現政権の力を借りて「旭日旗を掲示することは、抗議さえなければ全く問題ない」というお墨付きを与えたといっても過言ではありません。

「政治とスポーツは別」という言葉は、権力者が自分たちの都合でスポーツを利用しようとした時にスポーツに携わる側から「お前らには与しない」と宣言をする場合においてのみ理解されるものです。そして今回の旭日旗の一件によってJFAおよびJリーグは権力に体よく利用されたいるにも関わらず、JFA・Jリーグ・現政権に対して抗議する声よりも「菅さんよくぞ言ってくれた!」「AFCと韓国に目に物言わせてやれ!」「AFC脱退まで視野に入れるべきだ!」みたいな声が大きいようなので、本邦の蹴球界隈に対して大きく失望しております。かつて日本は「連盟よさらば!」「我が代表堂々退場す」なんてことをカマしてガラパゴス化して内輪でしか通用しない理論をかざしてアジア諸国を侵略していったわけですが、70年以上経ってもかつてのような思考形態が顔を出してくる辺り、歴史を知るということは大事なのだなぁと考える次第です。

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